酪農編

馬産地から酪農王国へ。釧路の大地で育まれた酪農の歴史と、現代のデータ科学による進化を学ぼう。

馬産地から酪農王国へ

釧路の馬産時代の風景

かつて釧路の大地には、馬のたくましい足音が響いていました。明治から昭和初期にかけて、釧路は寒冷な気候と広大な草地を活かし、軍馬や農耕馬の育成拠点として発展した日本有数の馬産地でした。

大楽毛馬市と神八三郎氏

その歴史は古く、釧路地方の馬産は1800年頃にはすでに始まっていたとされ、開拓の初期からこの地の自然条件を最大限に活かしながら、馬産が地域の基盤を形づくってきました。特に明治44年に創設された「大楽毛馬市」は、名実ともに日本一と称され、多くの人と馬が集う一大拠点となっていました。

神八三郎氏と品種改良 大楽毛馬市の様子

日本釧路種の誕生

その中心には、神八三郎氏[ジン ハチサブロウ]の存在がありました。神八三郎氏は日本人の生活や農業に適した馬を追求し、「日本釧路種」「奏上釧路種」といった優秀な馬を品種改良によって誕生させます。戦後の混乱期にあっても、昭和21年と27年に1,000頭規模の大共進会(馬の品評会)を開催するなど、釧路は"馬産王国"として確固たる地位を築いていったのです。

馬から酪農への転換期

やがて、交通インフラの整備や農業機械の普及とともに、馬の需要は次第に減少。地域は新たな産業の柱を求め、そこで注目されたのが「酪農」でした。草地を活かし、牛を育て、牛乳を搾る。釧路は「馬のまち」から「牛のまち」へ着実にその歩みを進めていきます。

手搾りからロボット搾乳へ

当初の酪農は、牛のそばにしゃがみ、一頭ずつ手で乳を搾る「手搾り」が当たり前でした。特に真冬の早朝、氷点下の中での作業は過酷を極め、酪農は「家族総出の重労働」とも言われていた時代です。しかし、時代の流れとともに酪農の現場は進化します。1950年代には「ミルカー(搾乳機)」が登場し、搾乳の効率が格段に向上。さらに1970年代には、牛を一列に並ばせて効率的に搾乳を行う「ミルキングパーラー」が導入され、人の動きは最小限に抑えられ大規模経営にも対応できるようになります。

ミルキングパーラーでの搾乳 現代の搾乳機械設備

データと科学の時代

そして現代。牛が自ら自動搾乳機へと向かい、センサーが個体を認識して乳房の位置を正確に検出、搾乳・データ管理を行う、「ロボット搾乳」の時代が到来しています。牛ごとの健康状態、搾乳量、行動パターンまでもがクラウドで管理され、酪農は"経験と勘の世界"から"データと科学の世界"へと進化を遂げました。

最新のロボット搾乳システム データ管理システム

品種改良と全国への流通

また、乳牛の品種改良も進んでいます。競走馬に血統が重視されるのと同様、酪農でも乳量の多さや体の丈夫さなど、目的に応じて優れた特性を持つ牛同士を人工授精で交配させ、より高品質な乳牛づくりが日々追求されています。

こうして釧路で搾られた牛乳は、この地だけにとどまらず、全国の食卓へと届けられています。その流通を支えているのが、北海道と本州を結ぶ専用の貨物船「ほくれん丸」です。

ほくれん丸(貨物船) 全国に届けられる乳製品

「ほくれん丸」は、"酪農物流の大動脈"とも呼ばれ、冷蔵・冷凍設備を完備した船内には、釧路をはじめ道内各地から集められた牛乳、バター、チーズなどの乳製品が積み込まれます。釧路港から茨城県の日立港まで、およそ20時間で結ばれ、毎日欠かさず運航されています。この安定した輸送網により、北海道産の乳製品はわずか数日で本州や九州のスーパー、学校給食、飲食店などへと届けられるのです。

つまり、釧路の牛乳は、地元の暮らしに寄り添うだけでなく、遠く離れた誰かの朝にもそっと寄り添っているのです。この広大な大地で育まれた一滴が、日本の「当たり前の毎日」を支えている、そう思うと、酪農が担う役割の大きさが、あらためて心に迫ってくるのではないでしょうか。

取材 / 執筆:釧路市地域おこし協力隊